紀行作家で、熱心な鉄道ファンでもある宮脇俊三さんの代表作の一つに『時刻表昭和史』(*)があります。
筆者の青少年時代の体験をベースに、戦前・戦中の鉄道や時刻表の歴史をたどった作品です。

この作品の中に、筆者が父親と昭和20年(1945)8月15日に米坂線(山形県米沢駅~新潟県坂町駅)の今泉駅で玉音放送を聞いたという話が出てきます。
それによれば、筆者は放送が終わった後、時刻表通りやってきた米坂線坂町行の列車に乗車したそうです。
「こんなときでも汽車は走るのか、私は信じられない思いをしていた」と書いています。

いま手元に、札幌工場の古い伝票の束があります。
昭和20年8月のもので、原材料や部材の仕入れ及び出金関係の伝票類のようです。
一枚目は8月1日に、歯車軸10個を外注加工したことを示す伝票です。
さらに伝票をめくっていくと、8月2日、3日・・と、ほぼ毎日の仕入れ記録があり、休日もなく操業していたことがわかります。
そして8月15日にも、きちんと材料の仕入れが記帳されています。
それ以降、8月31日まで、様々な部材を仕入れていたことがわかります。
伝票の流れだけを見ていると、8月15日に日本の歴史の大転換点となった出来事があったとは、とても思えません。
宮脇さんの言葉を借りれば、こんな時でも平然と工場では仕事を進めていたのか、と信じられない気持ちです。

当時の札幌工場は海軍監督工場に指定されていたため、海軍向けの仕事しかしていなかったと聞いています。
戦争が終わり海軍もなくなり、札幌工場の仕事もやがてゼロになりました。
札幌工場にとっても、8月15日は大転換点でした。
でも、終戦の日もその翌日以降も、何事もなかったかのように操業していたことが、これらの記録からわかります。

終戦の日は暑い日だったと、多くの人々が書き残しています。
映画やドラマでも、人々が玉音放送を炎天下で聞いているシーンが出てきますが、その日の札幌の最高気温は23.9度とのこと。
いまと違って、やはり当時の札幌の夏は爽やかだったようです。

札幌工場のその日を知る人は、誰もいなくなりました。
でも、当時を偲ばせる古い木造の建物は、今でも一部残っています。
その日の正午に重大放送があるということは、予め知らされていました。
このため、事務所に置かれていたラジオを、わざわざ工場内に運び入れ、全員ラジオの前に整列し、直立不動で放送を聞いたそうです。
放送終了後、再び仕事を続けたのでしょうか。
雰囲気はどうだったのでしょうか。

古い伝票の束を眺めつつ77年前の情景を想像していると、興味が尽きません。

*『時刻表昭和史』宮脇俊三著 角川書店 1980年
 (第13章 米坂線109列車-昭和20年)